ウィーン体制の限界とナショナリズム
ウィーン体制の限界とナショナリズム
第4週 ウィーン体制の限界とナショナリズムの台頭
国際政治史 1
2026年5月13日
李 承赫
今日の授業の内容
- 『国際政治史』「第2章勢力均衡とナショナリズム」後半(41ー50ページ)
1. ナショナリズム
- 「政治的な単位と民族的な単位が一致しなければならないと主張する政治的原理」(ゲルナー)
- 「民族がその文化的個性の自由な発展をとげるためには、他民族の政治的支配から解放されなければならないという主張」(岡)
- フランス革命とナポレオン戦争の影響
- ウィーン体制の弱体化の一つの原因:大国の間のバランスを保つという保守性の強いウィーン体制の下では抑えられたが、19世紀中盤から、ヨーロッパ各地の民族蜂起によって再台頭
フランスの1848年革命とその影響
- 1848年2月パリ民衆の蜂起。(1)でウィーン体制を打倒しようとした。
- ウィーンとベルリンなどに飛び火
- ウィーン体制崩壊の始まり
- 諸民族の独立・統一運動への展開
- 共通イデオロギー:(2)=「理想的な自由主義(Liberalism)」
勢力均衡 (Balance of Power) とリアリズム (現実主義)
- 後の「合理主義理論」の主流 (Rationalism)
- 生存と国力 (Survival and Power) 概念 → 利益 (Interest)
- 勢力均衡 (BOP): (3)
- 覇権安定論 (Hegemonic Stability & Power Transition)
自由主義(リベラリズム)
- リベラリズムも、リアリズムと同様、後の「合理主義理論」の主流(Rationalism)→しかし、平和への提案(Prescription)が異なる
- リベラリズムの「三つの軸」
- (4)(国内政治)
- (5)(経済)
- (6)(国際関係)
クリミア戦争(1853~1856)
- 1848年革命で弱化したウィーン体制の崩壊のきっかけ→ナポレオン戦争以降のヨーロッパ最大の戦争
- 「東方問題」:ロシア・オーストリアがオスマン帝国の弱化に伴い、バルカン半島で勢力圏争い。(7)
- 1853年:ロシアの(8)がオスマンと開戦。
- 1854年、(9)がオスマンの味方として参戦。
イタリアとドイツの統一
- イタリアの統一過程:複雑。(10)中心。
- ドイツ統一:ウィーン体制の終焉(ドイツ連邦という数多くの国家があった中央ヨーロッパがドイツ帝国になる過程)。
- ビスマルク主導の(11)が主導(デンマーク、オーストリア、フランスとの戦争)
- プロイセンの「(12)」・軍政改革
- ウィーン体制の遺産であるドイツ連邦の解体(北ドイツ連邦)
- 普仏戦争(ビスマルクによる世論煽り立て)→(13)誕生
- パリ占領とフランスの「(14)」
ウィーン体制崩壊後のヨーロッパ
- 中央ヨーロッパにおける、(15)
- 排他的なナショナリズムと「(16)」、拡張主義
- (17)
- リベラリズムの軸の中で、「(18)」の弱化→国内における圧力団体が対外政策に関与
ビスマルク体制
- ビスマルクによる、多様な同盟関係の形成:ウィーン体制の後、ヨーロッパの平和の維持に寄与
- 当時のヨーロッパにおける、「紛争の種」→ヨーロッパでは、(19)によって制御
- 三帝協定(1873, 1881):(20)
- 三国同盟(1882):(21)
- 同盟主導以外にも、仲介役としてのビスマルク(ベルリン国際会議)
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