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はじめに
どのような社会も、次の世代を育て、彼らに文化的な遺産を継承させなければなりません。この意味では、教え学ぶという行為は歴史的に普遍であるはずです。しかし、次世代の再生産が常に「教育」、すなわち他者による意図的・組織的な働きかけを通じた社会化という形をとるとは限りません。さらに図式的・組織的な働きかけを通じた社会化という形をとるようになるのは、歴史的に見て最近のことであり、それが「学校教育」という形をとるようになるのは、歴史的に見て最近のことです。
もちろん、学校という制度それ自体は長い歴史を持ちます。ただし、第3章でも扱った大学が典型的なように、近世以前の学校とは、ごく少数の人々に特別な知識やスキルを伝授するためのものであって、あらゆる子どもや若者が行かなければならない場所ではありませんでした。子どもが一人前になるために、誰もが一定期間、学校で教育を受けなければならないという社会は、長く見積もっても西ヨーロッパを中心とした地域で、ここ200年の間に創られたものに過ぎません。
全国津々浦々に学校を設立し、共通のカリキュラムを策定し、有資格教師を養成・配置し、一定の期間あらゆる子どもたちを学校に通わせ、その大部分の費用を公費によって賄う。現在の私たちにとっては当たり前のことに見えるとしても、公教育というプロジェクトは、社会が途方もないコストとエネルギーを投じてようやく可能となる、歴史上類例のないほど野心的な試みでした。本章では、とりわけ近代における公教育制度の展開を跡づけながら、その歴史的な意味を考えてみたいと思います。
1 近代以前の公教育
中世の公教育
もっとも、近代以前に公教育と呼びうるものは存在しなかったと考えるならば、それは著しく偏った歴史認識になるでしょう。「公」を何と捉えるかによって、教育の定義自体が変わってしまいますが、仮に公に開かれた教育、すなわち「公的権力が介入する教育」というさわやかな限定的な理解をせず、近代をはるかに遡った時代に、公教育を見出すことができます。
その場合ですら、おそらく8世紀のフランク王国でしょう。第4章でも詳しく扱ったフランク王国では、最も有名な<mark kind="red-circle">カール大帝</mark>の時代に、ラテン語を除く西ヨーロッパをほぼ手中に収めたフランク王国が、古典古代文芸復興運動、ラテン語正則化運動、修道院と皆聖学校の創設などの文教政策と並行して、<mark kind="marker-green">一般民衆の教化</mark>を行ったことは、カロリング・ルネサンスとしてよく知られています(多田[2014])。
789年にカール大帝が発したカピトゥラリア(通常「勅令」と訳されます)には、<mark kind="marker-green">各修道院が地域社会</mark>に学校を設立し、一般民衆を教育すべし、という文言があり、時に「ヨーロッパ最初の教育令」といわれることもあります。ただし、カピトゥラリアは現在の私たちがイメージする法的拘束力のある「勅令」とは異なるというのが最近の中世史研究が指摘するところですので、これを近代の教育令と同一視するのにはかなり無理があるようです。
12世紀以降では、都市型公教育と呼ぶべき事例が見られます。その先駆けとなったのは多数の放浪教師が集まる大都市ではなく、それまでは教師を引きつける経済的基盤を持たない小都市でした。たとえばイタリアのトスカーナ地方では、<mark kind="underline">サン・ジミニャーノ</mark>という町が教師に給与を補助したり、<mark kind="underline">ピストイア</mark>という町では、役人が教師を求めて地方全域に出張したりしています。その後14世紀後半から15世紀になると、たとえば大都市ワルシャワでも、公的学校を設立したり授業料を公費補助するような動きが現れてきます(児玉[1993])。
もっとも、ここでの公教育の目的はあくまで<mark kind="marker-green">市民を対象とした中級官吏養成</mark>で、あらゆる人々に開かれた公教育という近代的な意味合いのものではありませんでした。
近世の公教育
「時代を下るならば、近世ドイツにおけるポリツァイ条令が、より近代的な教育の法制化のイメージに近いかもしれません。」
「ポリツァイ」とは現代ドイツ語では警察を指しますが、近世においては意味がまったく異なります。近世においてポリツァイは、現在私たちがイメージする警察はまだ存在しません。抽象的にいえば、ポリツァイとは共同体においてよき秩序と公益を維持し増進すること、およびそれに関わる諸活動を指します。
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