鎌倉時代の末ごろから、農業の集約化や多角化を背景に庶民の間で新しい動きが目立ちはじめた。一部の名主だけのものであった荘園の集まりに、新しく成長してきた小百姓が参加し、南北朝時代から室町時代には、百姓が全体としてまとまった行動をとるようになった。(1)を中心にして村々で(2)をもち、指導者として(3)などを選んだ。この新しい自治的な村落を惣(惣村)という。
惣村の百姓は、一味神水の儀式などによって(4)を結び,作柄不良による年貢の減免や、不法な代官の罷免を求めて,強訴や逃散などの実力行使をおこなった。領主におさめる年を惣村が請け負う(5)(百姓請・地下請)もおこなわれた。また、惣村のなかには、荘園の領域をこえて集まり、番水制をしいて同じ一つの水系を管理し,水を配分することも多かった。
さらに近江などの地域では、(6)をつくって入会地の利用法などを定め、掟にそむく者を村から追放するなどして(7)をおこない、みずから警察権を行使して村を守った。また、守護などの家臣である地侍となることで、家や村を守ろうとする者もあらわれてきた。
1428(正長)年、近江坂本の馬借が徳政と主張して借金の帳消しを要求した。これをきっかけに、京都近辺の庶民が蜂起して、酒屋・土倉・院をおそい。売買や貸借の証文を焼き捨てた((8))。馬借たちがその情報を拡散したこともあって,一揆はたちまち大和・河内・播磨へと波及した。翌1429(永享元)年の播磨の土一揆では、一揆を鎮圧しようとした守護赤松氏の軍勢の国外退去を求めた。
1441(嘉吉元)年におきた(9)は最も大規模なものであった。数万に及ぶ一揆勢が連携して、実力で債務を破棄して((10))徳政令を要求した。幕府はついにそれを認めて,はじめて徳政令を発布した。当時の貴族は、一般の民衆を土民とよんでおり、彼らが結んだ一揆ということで,土一揆といわれた。そのうち、貸借関係の無効(徳政令の発布)を要求するものを徳政一揆という。
以後も、たびたび土一揆がおきて幕府を苦境に追い込んだ。それに対し,幕府は(11)とよばれる手数料を納入させる方式を編みだし,幕府財政の安定をはかろうとした。徳政要求は借金の帳消しという内容もあって各地でわき上がり、幕府とは別に,各地の寺社領や荘園村落でも私的な徳政令が出された。
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