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第2部

弥生時代の日本(稲作伝来)

稲作(お米)は、約(1)年前の縄文時代末期に中国・朝鮮などから日本列島に伝わりました。稲作が広まった時代を(2)といいます。稲作の伝来ルートをめぐるいくつかの説がありますが、大きく分けて地図にある(3)つのルートだと考えられています。まず朝鮮半島と距離が近い(4)に稲作が伝来したことが遺跡などの証拠からわかっています。

水田を頼りに生活するようになった弥生人は集団で水田の周りに定住するようになり、ここで歴史上の大きな変化が起きました。それまで日本列島に住んでいた縄文人は(5)中心の生活だったため集落の外へ食料を求めて行き来しました。一方、弥生人は集団で農作業を行ったため同じ集落に何世代にもわたって定住し続けました。こうして(6)が誕生しました。ムラでは男女ともに集団で農作業が必要だったため、定住と労働中心の社会((7))が形成されていきました。

消費されずに余った米は保存され、(8)の時の備えとなりました。写真にある(9)はこのときに作られています。

レクタニ

稲作が広がると、人々は水田を作るために川の近くの平野に集まって暮らすようになりました。稲作に適した地形で生活を始めた結果、大量の米を生産できました。しかし、米の保有量によって(10)が生まれるようになります。また、稲作には大量の水が必要だったため、(11)をめぐる奪い合いが起きました。

こうした争いから土地や米や穀物を守るため、ムラの周囲には堀、柵、見張り台が建てられるようになりました。このような防備を固めたムラのことを(12)といいます。ムラの安全が確保されるとさらに人口が増え、ムラの規模が大きくなりました。

やがて複数のムラをまとめ、争いを調整したり、水源や土地の利用を管理したりする強い指導者(リーダー)が必要になりました。こうして弥生時代後半には、複数のムラをまとめる「(13)」が現れます。「ムラ」が「クニ」へと発展する中で、農耕の技術は(14)と富を生み出し、社会構造を大きく変化させました。

人々は富を奪い合って争い合い、それが(15)の引き金にもなりました。

💡なぜ弥生時代になると争いが増えたのか、農耕と富の蓄積という視点から考えましょう。



The map illustrates the historical spread of rice cultivation in Japan. It shows the (16) region (Kyoto, Osaka) as the source of rice cultivation, with arrows indicating the spread to the north (A) and south (B, C). The map also shows the (17) and the (18).



高床式倉庫(復元)

米を(19)するための倉庫として使われました。湿度が高い日本のじめじめした気候では米が腐りやすいため、風通しを良くする構造になっています。また、柱には(20)が取り付けられました。




中国で文字・文明が先に誕生した理由

本よりも数千年も早く中国で文字・文明が誕生した理由を(21)の観点から考えます。

中国と日本の地形を比較すると、中国大陸には広大な平野が広がり、大河である(22)や(23)の流域で農耕が発達しました。

稲作は年間降水量(24)mm以上が必要とされ、この条件を満たす地域で広まりました。

西暦

中国史

日本史

前 1600 年ごろ

(25)(甲骨文字の発明)

縄文時代

前 1046 年ごろ

(26)

縄文時代

前 221 年

(27)

弥生時代

前 202 年

(28)

弥生時代

57 年

後漢

弥生時代

239 年

魏

弥生時代

280 年

晋

古墳時代(漢字が広まる)

589 年

隋

飛鳥時代

618 年

唐

飛鳥~平安時代

960~1271 年

宋

平安時代

日本に文字がなかった時代、中国ではすでに文字が使われていました。漢字の祖先である殷の文字は(29)と呼ばれています。



古代中国ではこのような文字が使われ、文明が発展していきました。

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