世界史小テスト8-2(教科書p.52-54)

回答 1

 唐では隋の制度を発展させ、律令国家をつくった。中央には三省・(1)など分業にもとづく官制を設け、地方には州県制をしいた。また、均田制・租調庸制も取り入れた。都の長安は、諸国の使節や留学生・商人など、様々な人々が集まる国際都市となった。また、道教・仏教が権力者の保護を受けて栄えた。(2)や義浄がインドを訪れて仏典をもち帰り、やがて、浄土宗や禅宗など中国独特の宗派も形成された。科挙の導入によって儒学も盛んになり、(3)らにより『五経正義』が編まれた。文学では、李白・杜甫らの詩人が名作を生み出した。

 唐の制度や文化は近隣諸国にも広がり、東アジア文化圏を形成した。チベットでは、7世紀にソンツェン=ガンポが(4)をたてた。( 4 )は唐の制度を取り入れつつ、インドの影響を受けてチベット文字やチベット仏教を生み出した。朝鮮半島では、唐と結んで百済・高句麗を滅ぼした(5)が、唐の勢力を追い払い、朝鮮半島の大部分を支配下におさめた。( 5 )は唐の官僚制を受容したが、その運用は血縁にもとづく身分制度である骨品制が基盤であった。高句麗の滅亡後に中国東北地方から朝鮮半島北部にかけて勢力を広げた(6)は、唐の諸制度を積極的に取り入れ、日本とも通交した。日本も遣隋使・遣唐使を通して中国文化を摂取した。

 唐において、中国史上唯一の女帝である(7)が科挙官僚を重用したことで、政治の担い手は貴族から科挙官僚へと移りはじめた。8世紀前半には、均田制・租調庸制が崩れ、皇帝の玄宗は、農民からの徴兵にかえて、傭兵を用いる(8)を採用し、辺境においた(9)に軍団を指揮させたが、755年には( 9 )の安禄山や史思明らによる安史の乱がおこった。この反乱後、( 4 )や南詔が侵攻するなど政府の力が弱まると、唐は現実にそった政策を重視するようになった。唐が780年に採用した(10)は、実際に所有している土地で夏・秋2回の税を課すものであった。しかし支配は安定せず、9世紀後半に塩の密売人の(11)がおこした反乱が全国に拡大し、( 9 )の朱全忠により唐は滅ぼされた。

※回答内容が保存され、問題作成者が閲覧できます

出題内容

  • 1: 唐では隋の制度を発展させ、律令国家をつくった。中央には三省・____など分業にもとづく官制を設け、地方には州県制をしいた。また、均田制・租調庸制も取り入れた。都の長安は、諸国の使節や留学生・商人など、様々な人々が集まる国際都市となった。また、道教・仏教が権力者の保護を受けて栄えた。____や義浄がインドを訪れて仏典をもち帰り、やがて、浄土宗や禅宗など中国独特の宗派も形成された。科挙の導入によって儒学も盛んになり、____らにより『五経正義』が編まれた。文学では、李白・杜甫らの詩人が名作を生み出した。
  • 2: 唐の制度や文化は近隣諸国にも広がり、東アジア文化圏を形成した。チベットでは、7世紀にソンツェン=ガンポが____をたてた。( 4 )は唐の制度を取り入れつつ、インドの影響を受けてチベット文字やチベット仏教を生み出した。朝鮮半島では、唐と結んで百済・高句麗を滅ぼした____が、唐の勢力を追い払い、朝鮮半島の大部分を支配下におさめた。( 5 )は唐の官僚制を受容したが、その運用は血縁にもとづく身分制度である骨品制が基盤であった。高句麗の滅亡後に中国東北地方から朝鮮半島北部にかけて勢力を広げた____は、唐の諸制度を積極的に取り入れ、日本とも通交した。日本も遣隋使・遣唐使を通して中国文化を摂取した。
  • 3: 唐において、中国史上唯一の女帝である____が科挙官僚を重用したことで、政治の担い手は貴族から科挙官僚へと移りはじめた。8世紀前半には、均田制・租調庸制が崩れ、皇帝の玄宗は、農民からの徴兵にかえて、傭兵を用いる____を採用し、辺境においた____に軍団を指揮させたが、755年には( 9 )の安禄山や史思明らによる安史の乱がおこった。この反乱後、( 4 )や南詔が侵攻するなど政府の力が弱まると、唐は現実にそった政策を重視するようになった。唐が780年に採用した____は、実際に所有している土地で夏・秋2回の税を課すものであった。しかし支配は安定せず、9世紀後半に塩の密売人の____がおこした反乱が全国に拡大し、( 9 )の朱全忠により唐は滅ぼされた。

...他8問(続きはテストで確認!)