欧米諸国は、なぜ帝国主義政策の政策をすすめたのか?
帝国主義→ 市場拡大・資源獲得のための植民地の維持や獲得 軍事力を背景に、欧米列強による世界分割の動き
1870 年代 化学技術の発展→第 2 次産業革命(石油・電気の利用・重化学工業)
膨大な資金が必要=企業の集中や独占資本が形成
19 世紀末、アメリカが世界最大の工業国に
ヨーロッパ諸国=16~18 世紀に奴隷貿易を目的にアフリカへ 植民地支配は免れていた
BUT リイヴィングストンやスタンリーなどの探検家が活躍 内陸部に豊富な資源
1884~85 年 ベルリン=コンゴ会議 主催 ビスマルク
「最初に支配した国が占有できる」
エチオピア・リベリアをのぞくアフリカ全体がヨーロッパの支配下に
植民地化→多くの対立や戦争
イギリス→金・ダイヤを求め
南アフリカの支配権をもとめオランダ系白人(ブール人)と争う→南アフリカ戦争 (ブール戦争)
ケープ植民地 セシル=ローズの活躍で周辺一帯を獲得
南北に縦断する政策すすめる
この戦争によりロシアの南下政策に対抗する余裕がなくなる
→ 1902 年 日英同盟を結ぶ
アフリカを東西に横断する政策を進める
スーダン南部でイギリスと衝突→ファショダ事件
イギリスがスーダン・フランスがモロッコを支配することで合意
1904 年 英仏協商 → ドイツを牽制
イタリアはエチオピアに進出するも抵抗を受け撤退
イタリア=トルコ戦争に勝利しリビアを獲得
エチオピア以外のアフリカの人々が抗戦
スーダンではマフディー(救世主)と自称するムハンマド=アフマドが反乱
イギリス→オーストラリアやニュージーランドの開拓、フィジーの領有
西部開拓によりフロンティア消滅したアメリカも植民地獲得競争に加わる
1898 年 ハワイを併合し、アメリカ=スペイン戦争でキューバ・フィリピン・グアム・プエルトリコを領有
アメリカ大統領 セオドア=ローズヴェルトの棍棒外交
本時の理解しなければいけないことは何か?
アフリカの分割が進んだ理由は何故か?
イギリスとフランスはどのようにして英仏協商を結ぶに至った経緯を答えよ。
イタリアはなぜ大国のオスマン帝国に勝利できたのか答えよ。
棍棒外交とはどのような外交か答えよ。
自由民権運動がめざしたのは、どのような国家だったのか?
19 世紀後半 欧米諸国で立憲制が定着する
1876 年 アジアのオスマン帝国でもミドハト憲法が制定
その後、専制政治にもどるが立憲制が世界の潮流になっていった
廃刀令、家禄の廃止 → 士族の一部が政府に不満
不平士族は武力で政府に対して対抗 → 佐賀の乱、西南戦争など=士族反乱 → いずれも鎮圧
1874 年 板垣退助らが民選議院設立建白書を政府に提出
政府に却下されるも新聞で反響を呼ぶ
薩摩、長州出身者による政権独占をやめさせ、国会や憲法により人々の自由・権利を保障する近代国家を目指す
→ 自由民権運動
板垣らが高知で立志社をつくり言論の運動は始める
各地で結社がつくられていった
1875 年 愛国社を創立 全国の結社を結ぶ組織
政府は新聞紙条例を出して政府批判の言論を封じ込めようとした
1880 年 国会期成同盟を結成 全国の自由民権運動家集まり
政府は集会条例を出して規制
※ 男女同権論を主張する岸田俊子・影山英子らの女性民権家もいた
政府内 すみやかな国会開設・憲法制定を主張する大隈重信
それに反対する伊藤博文・岩倉具視
1881 年 官有物払い下げ事件が発生 → 政府批判の世論が高まる
大隈重信を政府から追放+10 年後の国会開設を約束 明治十四年の政変
板垣退助を総理とする自由党と大隈重信を総理とする立憲改進黨が結成
BUT 自由民権運動は厳しい言論統制によりゆきづまりはじめる
危機感を抱いた民権家が各地で蜂起→ 秩父事件や加波山事件など
国会開設を約束した政府→憲法調査のため伊藤博文をヨーロッパへ派遣
プロイセン憲法を参考にした
理由→皇帝の権力が強く、天皇中心の政治を目指す日本に好都合であったため
帰国後、1884 年に華族令を制定し、貴族院の開設に備えた
翌 1885 年には内閣制度をつくり、みずから初代内閣総理大臣となった
ロエスレルの協力のもと秘密裏に憲法を起草
草案は枢密院の審議をへて、1889 年 2 月に大日本帝国憲法として発布
天皇が定める欽定憲法で主権は天皇
軍隊の統帥権、戦争の宣戦・講和、条約締結など大権も天皇にある→天皇大権 国民→「臣民」とされ、言論・出版・結社の自由などは保障されたが→法律の範囲内 帝国議会は貴族院と衆議院の二院で構成 衆議院は国民の直接選挙にて選ばれた 選挙権は直接国税 15 円以上を納める満 25 歳以上の男性に限られた→全体人口の 1.1% 1890 年 国家の精神的な柱として忠君愛国の道徳を説く教育勅語を發布
伊藤博文は不平等条約の改正にも力をいれた 伊藤が外務卿(外務大臣)に任命したのは井上馨 欧米諸国の代表を集めて条約改正の予備会議を開く 鹿鳴館を建てて社交の舞踏会を開く 領事裁判権を撤廃するかわりに、外国人を判事に採用するという考えも示した BUT 民権派の反発を買い、極端な欧化政策への世論の批判も重なり、井上は外務大臣を辞職 条約改正交渉は頓挫した
日本はどのように国境を確定したのか
清・朝鮮との国交
清 李鴻章が主導となり外交関係を結ぶ
1871年 日清修好条規を結ぶ→互いの主権を認め合う平等な条約
朝鮮 清との朝貢関係を重視し、日本との外交交渉に応じなかった
西郷隆盛、板垣退助、江藤新平らが征韓論を唱える
軍事行動で朝鮮を従えよとする
BUT 帰国した岩倉使節団の大久保利通や木戸孝允に国内体制の整備が急務であると反対された
結果→征韓論者たちは政府を去った=明治六年の政変(征韓論政変)
反対勢力を追い出した大久保利通らは、別の手段で朝鮮を開国しようとした
江華島に軍艦を派遣して朝鮮を挑発
朝鮮が軍艦に砲撃すると、清の了承を得たうえで朝鮮に開国をせまる
→ 江華島事件
1876年 日朝修好条規
朝鮮が日本に対して釜山、仁川、元山の三港を開港
治外法権・関税自主権の放棄を認めさせる
朝鮮にとって不平等な条約であった
その後、壬午軍乱や甲申事変により日本の朝鮮への影響力は低下

Map of the Korean Peninsula showing the location of Ganghwa Island (江華島) and the three ports of Busan (釜山), Incheon (仁川), and Wonsan (元山). The map also shows the surrounding sea (Yellow Sea) and the border with China (清).
1869年 蝦夷地→北海道と改称
現在の札幌市に開拓使を設置
1874年 屯田兵制度を設ける
職を失った旧武士を北海道に移住させ、屯田兵として開拓させる
屯田兵は開拓だけでなく、樺太に進出していたロシアからの防衛の役割もあった
1875年 ロシアからの要求に応じて 樺太・千島交換条約を締結
日本は樺太を放棄して、得撫島以北の千島列島を領有
樺太のアイヌを北海道へ強制移住させた
小笠原諸島は、1862年に幕府が領有を宣言
1876年に諸外国に対して日本領だと再宣言した
北海道に日本初の農業専門学校を開港
アメリカからクラークを招き、札幌農学校(北海道大学の前身)開校

Map of the Japanese archipelago showing territorial changes and acquisitions. The map includes labels for various islands and regions, such as Hokkaido (北海道), the Kuril Islands (千島列島), and the Ryukyu Islands (琉球). It also indicates the date of acquisition for several islands, such as 1862 for the Ogasawara Islands (小笠原諸島) and 1876 for the Kuril Islands (千島列島).
日本の台湾侵攻と琉球処分
明治政府は琉球王国も統治下にいれよとした
琉球王国は薩摩藩や鹿児島県の支配を受けながら、清との貿易を続けるなど、一定の自治を行っていた 政府は琉球王国にも廃藩置県を適用し、1872年に琉球藩として、琉球の外交権を奪う
国王の尚泰は藩王とされた
1879年には琉球藩を廃止し、沖縄県を設置
これら一連の明治政府の強硬策を琉球処分
1874年 台湾に漂着した琉球の島民が、台湾の住民に殺害される事件が発生
琉球漂流民殺害事件を理由に、台湾に派兵した→台湾出兵
清が出兵に対して反対
大久保利通が北京におもむいて李鴻章と会談
清は日本の出兵を正当な行為として認めた
→ 日本は琉球の住民が日本国民であると清が認めたと解釈して台湾から撤兵した
明治政府はどのような国づくりをすすめたのか?
1866年 薩長同盟 → 自分たちで新しい政権をたてようとしていた
徳川家茂の死後、15代将軍・徳川慶喜→朝廷に政権を返上し、自ら政権を握ろうと画策
有力な諸藩からなる公議政体をつくろうとしていた
1867年、朝廷に政権を返す=大政奉還
徳川の存続を阻止したい公家の岩倉具視→薩摩・土佐藩の協力を求める→王政復古の大号令
明治政府発足
明治政府→慶喜に官職と領地の返還を求める
旧幕府派が反発→1868年 鳥羽・伏見の戦い → 戊辰戦争が始まる
多くの藩は新政府に従ったが、旧幕軍は北陸・東北地方の諸藩が奥羽越列藩同盟を結び徹底抗戦
BUT 旧幕府派の中心だった会津藩が降伏し大勢が決まる
その後、箱館の五稜郭にて旧幕臣・榎本武揚らも 1869年に降伏→新政府軍の勝利でおわる
江戸幕府から明治政府への政権交代+天皇のもとにある国民という一体感に基づく国民国家の創出
→ 明治維新
1868年(戊辰戦争中) 明治天皇は5カ条からなる新しい国の方針を発表
→ 五箇条の誓文 議会による政治、欧米からの知識の導入などが示された
一般民衆には旧来の儒教道徳を守らせ、キリスト教を禁止
→ 五榜の掲示
※掲示は旧態依然とした内容のため欧米諸国から批判を受け、後に撤回
アメリカを参考に三権分立の原則を出すとともに太政官制を発足
※「万機」は、あらゆる重要な政務。「公論」は、議会による話し合い。「經綸」は、国家を治める施策。「旧来の陋習」は、攘夷をさす。
→新政府の組織づくり
一世一元の制を採用
天皇が江戸城に移り、首都が東京となった
大久保利通や木戸孝允を中心とする新政府→版籍奉還を命じる
※諸藩に領地と人民を天皇に返上させた
BUT 旧大名が支配するしくみはかわらず、中央集権はすすまなかった
1871年 戸籍法を公布し、廃藩置県を行う
旧大名の知藩事が支配する藩を廃止し、新たに府・県をおいた
府・県は中央政府が派遣した府知事・県令が治めることになる
旧藩主は東京に住むように命じられた
幕藩体制は完全に解体され、中央集権体制が確立された
1869 年 新政府は江戸時代の身分制を廃止
旧藩士や公家=華族 武士=士族 その他=平民 → 四民平等
支給されていた秩禄も金禄公債証書と引き換えに廃止→秩禄処分
困窮した士族の中には慣れない商売に手を出して失敗する者も多く、武士の商法といわれた
身分をこえた結婚・職業・居住の自由が認められる+えた・非人など賤民身分の廃止令もだされた
BUT その後も社会的な差別は続く
政府は直接個人を把握するために戸籍の編纂がはじまる
1872 年 徴兵告諭 → 国民皆兵により兵役義務化を示し、翌 1873 年には徴兵令を出した
免疫規定を利用して徴兵を逃れようとしたりするものもでた
各地では徴兵反対一揆(血税一揆)がおきた
1872 年、政府は土地の自由な売買を認める地券を発行
1873 年 地租改正→すべての土地所有者から地価の 3%の税(地税)を現金で納入させることにした
各地で地租改正反対一揆がおこったので、政府は 4 年後の 1877 年、地租を 2.5%に下げた
イギリス・フランスの繁栄とイタリア・ドイツの統一
19 世紀後半のイギリス・フランス・イタリア・ドイツでは、どのような政治上の動きがみられたか?
19 世紀のイギリスとフランス
○イギリス→ ブルジョワよりの改革
1832 年 都市の中産階級に選挙権拡大 → 資本家の発言力が高まる
労働者 → 政治参加を求める = チャーティスト運動
1867 年 都市労働者 1884 年 農村労働者 → 議会制民主主義の基盤拡大
ヴィクトリア女王の時代 自由党と保守党の二大政党制が確立
強大な海軍力→植民地帝国を形成
○フランス→ 二月革命後 第二共和政
ルイ=ナポレオン → クーデタで政権獲得
1852 年 国民投票にてナポレオン 3 世として即位 → 第二帝政
工業化をすすめる、市場拡大のため海外進出
BUT プロイセン=フランス戦争(普仏戦争) = フランス敗れる → 第二帝政崩壊、臨時政府樹立
対独講和に反対する民衆が自治政府を樹立→パリ=コミュン
臨時政府に鎮圧され第三共和政が発足
○イタリアの統一
サルデーニャ王国が統一に乗り出す
国王 ヴィットーリオ=エマヌエーレ 2 世 首相カヴール
クリミア戦争に参加し国際的地位向上
フランスの援助を受けイタリア統一戦争を進める
ガリバルディ → 義勇軍を率いて両シチリア王国を征服 → サルデーニャが征服地を併合
→ 立憲君主政のイタリア王国が成立
ヴェネツィアや教皇領もイタリア領に
BUT 教皇と仲違い
北部と南部の経済格差(南部問題) 北部が工業・南部が農業
統合できなかったトリエステ・南チロルなどの「未回収のイタリア」
○ドイツの統一
ドイツ連邦→緩やかな連合体で統一が進まず
三月革命の結果 → フランクフルト国民議会
大ドイツ主義 VS 小ドイツ主義
小ドイツ主義が優勢になり、憲法が採択されるも国王が拒否→武力で弾圧される
1862 年 首相ビスマルク → 鉄血政策=経済力と軍事力による統一をめざす
1866 年 プロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争)→ 勝利
1870 年 普仏戦争に勝利
1871 年 ヴィルヘルム 1 世がドイツ皇帝に即位→ドイツ帝国が成立
宰相は皇帝にのみ責任を負い、議会の力は小さい → 大日本帝国憲法にも影響を与える
将軍や各藩はどのような政治体制をつくろうとしたのだろうか?
江戸幕府→後継者問題
大老の井伊直弼 → 紀州藩主 徳川慶福を後継者に
14代将軍 徳川家茂となる
御三家(尾張・紀伊・水戸)の水戸と外様大名の薩摩が反対
反対派を弾圧 = 安政の大獄
横浜開港 = 攘夷論が高まる + 尊王論 → 尊王攘夷派を形成
1860年(万延元) → 井伊直弼暗殺 = 桜田門外の変
次の老中 安藤信正 朝廷と団結し問題の解決をはかる → 公武合体
家茂と孝明天皇の妹、和宮との婚姻
幕末の薩摩藩と長州藩
薩摩藩 島津久光 大軍を率いて上京、幕府に改革を迫る
江戸まで向かい、帰る途中でイギリス人を殺傷 → 生麦事件
1863年(文久3) イギリスが薩摩を攻撃 → 薩英戦争
早期に講和が結ばれ、薩英は仲を深める
長州藩 → 過激な攘夷派で下関にて外国船を攻撃
薩摩藩 + 会津藩は八月十八日の政変
→ 長州藩士の京都での活動を妨げる
長州藩は京都に攻めのぼるが薩摩に敗北 → 禁門の変
幕府 → 諸藩に長州藩を攻める準備をさせる = 長州藩は戦わず幕府に降伏 → 第一次長州征討
※降伏直前にアメリカなど4カ国が下関を攻撃
大政奉還と王政復古
幕末 → 世直し一揆が頻発 = 長州征討により物価上昇
苦しんだ民衆が打ちこわし → 社会不安が高まる
1866年(慶応2) 土佐藩出身 坂本龍馬の仲介で(薩長同盟・薩長盟約)
幕府は第2次長州征討を試みたが失敗
※イギリスの武器を薩摩が長州に横流し
将軍家茂が病死 → 15代将軍 徳川慶喜 + 孝明天皇(攘夷思考高)が死去
1867年 薩摩藩も幕府との対決姿勢
慶喜は土佐藩の提案を受諾 = 朝廷に政権を返す → 大政奉還
薩長 → 岩倉具視と京都を武力で封鎖、幕府を廃止 = 新政府を発足
王政復古の号令
アヘン戦争の衝撃と日本の開国
アヘン戦争で東アジア諸国はどのような対応をせまられたか?
アヘン戦争とインド大反乱
18世紀半 清 → 貿易は広州港の一港のみ … 公行という商人組織が管理
イギリスマカートニー、アマーストが自由貿易を求めるも拒否
イギリスでは紅茶を飲む習慣が広がる → 茶の消費が急増
中国から茶の輸入が増 → イギリス内の銀が減少 = 片貿易

三角貿易の図表。イギリス、インド、中国の3国を頂点とする三角形で、各辺に貿易品が記されている。イギリスとインドの間には「綿織物」と「銀」、イギリスと中国の間には「茶・磁器類」と「銀」、インドと中国の間には「アヘン」と「銀」が流れている。
インドから原材料の綿花を輸入 → インドに工場制機械工業で大量の綿織物を製造・販売
インドから中国へは麻薬のアヘンを密輸
三角貿易
中国からは茶や陶磁器がイギリスへ
清 → 林則徐がアヘンを没収し廃棄
イギリスは強く反発 → 1840年 アヘン戦争
1842年 南京条約
※日本は異国船打払令を緩め、天保の薪水給与令を出す
(アヘン戦争後にむすぶ)
(第2次アヘン戦争後にむすぶ)
イギリスの輸出は伸び悩む
1856年 フランスと共同で第2次アヘン戦争(アロー戦争)
清国内 洪秀全が太平天国を樹立
滅満興漢を掲げ男女平等、土地の均等配分(天朝田畝制) → 民衆は歓迎
インド → イギリス支配(東インド会社)が強まり、シパーヒーや民衆が連帯してインド大反乱へ
→ イギリスは大軍で鎮圧しムガル帝国を滅ぼす = インドを直接統治 1877年 インド帝国成立
ペリー来航と条約締結
アメリカ…フロンティア消滅、捕鯨、中国貿易の寄港地の確保を目指す
1853年(嘉永6) ペリーが浦賀に来航し日本に開国せまる
1854年 ペリーと日米和親条約
1858年 ハリスと日米修好通商条約
→ 日本は開国 安政の五カ国条約
開国の経済的・社会的影響
横浜 → 欧米との貿易港で商人が集まり輸出入の中心に
日本からは主に生糸 → アメリカよりもイギリスが多数を占めたのはなぜ?
日本の文化は欧米人の関心を高め、ジャポニスム(日本趣味)がおこる ※浮世絵など
輸出増により物価が上昇、一揆や打ちこわし、幕府批判や尊王攘夷運動の背景に
長崎からはコレラが各地で被害をもたらした
東方問題を通じて、ロシアやオスマン帝国にはどのような変化が生まれたのか?
18 世紀末 オスマン帝国 → ヨーロッパ諸国に対し劣勢
列強は中東・バルカン半島へ進出 → 東方問題
18 世紀以降 南下政策(ロシア)
1853 年 オスマン帝国内のギリシア正教徒保護 → クリミア戦争
イギリス・フランスがオスマン軍を支援 → ロシア敗北 = 1856 年 パリ条約
→ ウィーン体制が完全崩壊
1839 年 タンジマート → 近代化改革 = クリミア戦争後イギリス・フランスが干渉
1876 年 ミドハト憲法 公布 宰相 ミドハト=パシャが立憲君主政を目指した
議会の開設・言論や信仰の自由が保障
BUT ロシア=トルコ戦争(露土戦争)により憲法停止
イギリス・フランスによる経済支配が強化された
オスマン帝国の領土だったエジプト → 総督ムハンマド=アリー = 富国強兵・殖産興業の推進
仏のレセップスの指導でスエズ運河の建設→財政難 = スエズ運河株をイギリスに売却
→ 国家財政はイギリス・フランスの管理下に
1881 年 軍人ウラビーが蜂起 「エジプト人のためのエジプト」 → 民族主義の意識が高まる
18 世紀末 イラン → カージャール朝
ロシア・イギリスの侵略 両国への従属を強める = 不平等条約を結ばされる+治外法権や通商上の特権
→ イスラーム世界の危機
アフガーニー → パン=イスラーム主義を掲げる スンナ派とシーア派の連帯を訴える
1891 年 タバコ=ボイコット運動 → イギリスのもつタバコ専売権への反発
1905 年 イラン立憲革命 → 議会開設と憲法制定が実現
クリミア戦争敗北=近代化の必要性
アレクサンドル 2 世 → 1861 年 農奴解放令 など諸改革 → 不徹底におわる
不満をもった学生・知識人 → 「人民の中へ」をスローガン = ナロードニキ運動を展開
→ 農民は支持せず
アレクサンドル 2 世は暗殺される
1877 年 ロシア=トルコ戦争 → ロシアが勝利 バルカン半島の大部分を勢力下に
イギリス・オーストリアが反対 → ドイツのビスマルクが仲介 → 1878 年ベルリン会議
=ロシアの南下政策は失敗
アメリカ合衆国の発展とラテンアメリカの独立
領土拡大の過程でアメリカ合衆国ではどのような問題が発生しただろうか?
モンロー宣言と西部開拓
独立後のアメリカ→国内の整備と国力の充実につとめる
→ナポレオン戦争は中立を保ち、対外紛争を避けた
1823 年 大統領モンローがモンロー宣言を発表 → 南北アメリカとヨーロッパとの相互不干渉
フランスからルイジアナを購入し、メキシコからはテキサス、カルフォルニアを獲得
領土拡大 → フロンティアの開拓=神から与えられた「明白な天命」として先住民を排除
カリフォルニアで金鉱発見→移住者も増え、捕鯨やアジアとの通商を求め太平洋への進出
西部の人口増加 → 南部と北部が対立
南部 綿花をイギリスへ輸出 奴隷存続と自由貿易を求める
北部 工業中心で奴隷に反対、保護貿易を求める
奴隷反対のリンカンが大統領になると南部は連邦を離脱 → アメリカ連合(南部連合)をたてる
→ 南北戦争勃発
北部 ホームステッド法により西部の支持を受け奴隷解放宣言で国際世論も味方につけた
→ 北部が勝利
なぜ北部が勝利できたのか?
南部では奴隷制が廃止されるもシェアクロッパーとなるものが多かった
K K Kなどの人種主義が台頭
1869 年 大陸横断鉄道が開通し西部開拓が進む
国内市場の拡大を背景に工業化が進む → 19 世紀末には世界最大級の工業国に
1804 年フランス領ハイチが独立→ハイチ共和国 指導者トゥサン=ルヴェルチュール
スペイン・ポルトガルはナポレオンによる本国占領をきっかけに植民地支配がゆらぐ
クリオーリョ(地主層・現地生まれの白人)を中心に独立運動
例) シモン=ボリバル →ボリビア
メッテルニヒは干渉しようとするもモンロー宣言で手出しできず
※イギリスも市場獲得のために反対
スペイン → ベネズエラ、コロンビア、アルゼンチン、チリ、ペルー、メキシコが独立
ポルトガル → ブラジルも帝国として独立
独立後のラテンアメリカ→旧本国系白人、先住民、アフリカ系住民の混血がすすみ複雑な住民構成に
BUT クリオーリョ優位と大土地所有は存続した
※回答内容が保存され、問題作成者が閲覧できます